騎馬打毬 八戸長者山新羅神社(2017) 

歴史
騎馬打毬(きばだきゅう)という伝統競技は、馬上で毬杖(きゅうじょう)と呼ばれる杖を操り、地上に置かれた毬を拾い上げ、指定された毬門に入れた数で勝敗を決めます。日本版ポロといえます。
打毬は、古代ペルシアで武術訓練として発祥したものが世界へ広まり、国や土地にあわせて変化を遂げました。インド、ベトナム、モンゴル、中国へと伝播し、欧米ではポロとなった。
日本へは唐(618-907年)を通じて伝えられ、貴族が打毬に興じる様子を表した雅楽の打毬楽から始まります。続いて日本と唐の仲介役だった渤海人によって、歩打毬(徒打毬:かちだきゅう)が伝えられました。これは、馬には乗らず地上で行なわれ、少年や婦人が打毬の基本技術を身につけるためと考えられ、近代ホッケーの原型になった。
やがて、馬の改良や馬術の普及、そして武士の台頭などによって騎馬打毬が広まり、歩打毬とともに宮廷の行事となりましたが、その後は律令国家の衰退や地方豪族の勢力拡大、武士団の勃興に伴い衰退し、最後の実施の記録は987年(寛和3年)でした。
700年を経た江戸時代中期、8代将軍徳川吉宗によって騎馬打毬は復興します。吉宗は流鏑馬(やぶさめ)や笠懸(かさがけ)、犬追物(いぬおうもの)と共に武芸として騎馬打毬を取り入れ、日本独特の形を作り出した。そして、江戸を往復する藩士によって八戸をはじめ、白河、桑名などの全国の藩に広がりました。
吉宗は武芸奨励に熱心だっただけでなく、馬にも大変な関心をもち、オランダからアラブ馬を導入したり、日本馬の改良に尽力したり、オランダの馬術を学んだと言われている。 しかし、この騎馬打毬もまた、明治の文明開化とともに衰退しました。現在、騎馬打毬が行われているのは、宮内庁と山形の豊烈神社、八戸の長者山新羅神社の3箇所のみとなった。

ルール
・赤白、4騎ずつ計8騎で争われる。
・赤白、4つずつの毬が与えられ、毬杖(棒の先に網がついたもの)で毬を掬い、
自軍ゴールまでノーバウンドで入れられると1点。4点先取で3ゲーム行われる。
・相手の妨害も可能。敵軍の毬をゴールと反対方向に放ったり、
毬杖で相手の毬杖をはたいて落球させることも許されるが、騎手や馬に当ててはいけない。

競技場


毬門









騎馬打毬の動画





マイケル 騎馬打毬のために日本固有種の馬が継承されている

応援の団扇